打つべき機会には相手の心の動揺したところ、下がったところなどいろいろとあるが、特に効果があるのは、相手の技の出ばなである「起こり頭」を狙うこと、体力が尽きる、気力が尽きたなどの「技の尽きたところ」、心身の活動がにぶり、動きが一時停滞したなど「居ついたところ」。
これら三つが決して逃がしてはならない打つべき最大の好機と言われている。
一歩踏み込めば相手を打つことができ、一歩下がれば相手の打突を外すことができる距離を「一足一刀の間」といい、それより近い間合いを「近間」、遠い間合いを「遠間」と言う。近間は、技がきく者には有利であるが、初心者には不利である。遠間、近間もその稽古により有効打突とすることができる。若い時はできるだけ身体を動かし、遠い間合いから打突できるよう修錬することが望ましい。
「敵より遠く我より近く戦うべし」と言う教えがあるが、これは有形的な要素だけでなくて無形的な精神的作用も含んでいる。進む心は間が近く、逃げる心は間が遠いと、心の間合を指すこともある。
「気」とは、気勢、気迫、気合など心の精神作用を言い、心の判断によって動作を起こそうと する決心を指す。「剣」とは、竹刀操作のことで、竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突することであり、「体」とは、足さばきや体勢のことで、打った後の次の攻撃姿勢(残心)まで含める。これら三つが打突開始から打突後まで一致、一体となって始めて有効打突となる。その他、古くから心気力の一致、心形の一致とか同じような意味の言葉が使われている。
・・・ | 師を選べ (師から学ぶ) | ||
・・・ | 工夫する (見取り稽古を含む) | ||
・・・ | 数を重ねる(修錬を通して考える) |
先師の教えを正しく「習い」、自分の身に付くように充分「稽古」し、その上に自己の「工夫」を重ねる修錬して繰り返し、さらに上の境地を目指して、自分を磨いていくという教えです。
自分から攻撃する技が、そのまま防ぐ技となるよう心掛けなければならない。
打つ太刀、突く太刀はすなわち防ぐ太刀となり、又、受けるも、切り落とすも、すり上げるも、払うも、同時に打つ太刀、突く攻撃の太刀でなければならない。
相手を打突する技の中に防ぐ技が含まれ、又、防ぐ技がそのまま攻める技となるように努めることが大切である。懸と待が別々でなく、表裏一体のようにならなければならない。
四戒とは、
驚とは「おどろき」であり、懼とは「気ずかい」「恐れる」であり、疑とは「あやぶむ」「あやしむ」など疑心であり、惑とは「心が乱れる」「思いあやまる」であって、このような心の迷いをいち早く打ち破り、常にものに動じない心を養わなければならない。
剣道を修行する過程において、重要な事柄を述べた古人の教えである。
第一に相手を見る目、第二に足さばき、第三に胆力、すなわち何事にも動じない強い気持ちや決断力、第四に力、すなわち技を発揮する身体能力が重要であるというおしえである。
『一眼』は、剣道において一番大切なのは眼。相手の思考や、動作・技の起こりばなを見破る眼力、状況を判断するための情報をいち早く見つけ活かす洞察力が重要。
『二足』は、看取り稽古で技ばかり見ないで足を観よという教えもある通り、小手先の竹刀操作ばかりの技よりも、腰・体の入った打ちこみ、つまり足の踏み方・踏み込み、ひきつけ足や、送り足、開き足などのさばき方が重要。
『三胆』は、不動心、度胸、落ち着き、冷静さ。
『四力』は、技と、技を行うための体力、筋力などの身体能力。
初心者が一番重要ととらえ、稽古の中で鍛えよう、磨こうとする技や身体能力以前により大切なものが剣道にはあるという先人の教え。
誰でも耳にしたことがあるこのことばは、世阿弥が編み出したものです。今では、「初めの志を忘れてはならない」と言う意味で使われていますが、世阿弥が意図とするところは、少し違いました。 世阿弥は、第一に『是非とも初心忘るべからず』、第二に『時々の初心忘るべからず』。第三に『老後の初心忘るべからず』の、3つの「初心」について語っています。
『是非とも初心忘るべからず』、是非によらず、修行を始めたころの初心の芸を忘るべからず。
『時々の初心忘るべからず』、修行の各段階ごとに、各々の時期の初心の芸を忘るべからず。
『老後の初心忘るべからず』、老後に及んだ後も、老境に入った時の初心の芸を忘るべからず。
「初心忘るべからず」とは、それまで経験したことがないことに対して、自分の未熟さを受け入れながら、その新しい事態に挑戦していく心構え、その姿を言っているのです。その姿を忘れなければ、中年になっても、老年になっても、新しい試練に向かっていくことができる。失敗を身につけよ、ということなのです。
「剣を交えて"おしむ"を知る」と読まれ、剣道を通じて互いに理解しあい人間的な向上をはかることを教えたことばである。愛はおしむ(惜別)、大切にして手離さないということを意味しており、あの人とはもう一度稽古や試合をしてみたいという気持ちになること、また、そうした気分になれるように稽古や試合をしなさいという教えを説いたことば。
人の身體は心の儘に働き難きものなり。
劒道の如き微妙なる技を修練せんが爲めには、
全身の各部分均整に發達し、
よく鍛錬せられて自由自在に働かざるべからず。
されば頭の頂より足の爪先まで不完全の點なきやう養ふこと肝要なり。
然れども肢體完全にして強健なるも姿勢宜しがらざれば其の効無し。
斯道を學ぶ者は先づ正しき姿勢を作ることを要す。
姿勢は技術の基礎なり、根源なり、
姿勢正しくして自然を得るにあらざれば動作も亦輕捷自在なる能はず、
隨ひて進歩すること遅し。
姿勢正しければ動作の輕捷自在を致すのみならず、
品位加はり、勇氣を揩オ、威嚴を養ふを得可し。
(高野佐三郎著『剣道』より抜粋)
一、無理なく 構えにも、打突にも、さらには心の持ち方にも、いささかも無理なく乱れもない 自然の理に従った正しい剣=正義の剣
二、無駄なく 無駄打ちもなく、無駄力も入れず、無駄な掛け声もかけず、すべての魂を脱した 清らかな剣=廉恥の剣
三、無法なし 法を守り、ルールに従い、相手を尊重して、人に不愉快な思いをさせない、
謙譲の剣=礼法の剣
「日常の剣道修行においてこの”三無”の条件を備えれば、これこそまさに剣理、剣法に叶った
『理法の剣』と言える。」
幕末三大道場の一つ鏡心明智流理法を解く「三無の剣」を解説した、井上正孝著『現代剣道の課題』より
(「剣窓」田口栄治師範岩手国体総評内より添削)
(一)、刀を殺す 相手の刀を左右に押さえ、あるいは払い落とす等相手に刀を自由に 使用させないこと
(二)、技を殺す 相手に対し先の気構えでのぞみ鋭く打突をかけ、相手の力を防御に 専念させ、技を施すいとまを与えぬこと
(三)、気を殺す (一)及び(二)を繰り返し、攻撃の態度を崩さず、機先を制し、相手 の起こり頭を押さえる等常に先手を示し、相手の気を奪ってしまうこと